2011年(平成23年)3月、待望の九州新幹線全線開通となり、県民はじめ関係者の期待は大きい。鹿児島から青森まで高速鉄道で一つに結ばれ、新大阪まで3時間47分で到着する新時代に入った。
西鹿児島駅から寝台特急「なは」で、大阪間を往復した時代を想うと隔世の感が強い。つい最近まで私は、現在の鹿児島中央駅を西駅。鹿児島駅を本駅と言っていた。
時の流れの中で、西鹿児島駅が始発・終着駅として南の玄関駅になった。三角屋根の駅舎はその時代を生きた人々の脳裏に刻み込まれたシンボルの駅であった。残念だが、次の世代にとっては無縁の風景で、消えゆく歴史風景の宿命を思うことである。
私の小中学校時代は、郷里の南薩から伯父伯母の住む鹿児島市に再三往来する機会があり、本駅と西駅の鉄道風景を見るのが唯一の楽しみだった。
鉄道構内特有のセピア系鉄さび色。黒い塊が生き物のように動く風景。ひしめき合う人波やホームを離れる列車の流れを見ると、エネルギーの不思議に取りつかれた。
私の場合、亡き父が朝鮮半島の鉄道員だったので、過去における鉄道との関わりを語りかけてくれるようで、時間の過ぎるのを忘れてしまうほど夢中になって、鉄道風景の中に浸ったものである。
西駅は、大正3年、田んぼの中に武駅としてスタート、昭和30年に本駅化した。
新幹線の始発・終着となった鹿児島中央駅となった現在は、都会的な空間に変貌し、昔の西鹿児島駅を知る人にとっては、驚きの風景であろう。
伯父・伯母の話では、終戦当時、焼け野が原になった西鹿児島駅周辺から、現在の鹿児島駅(本駅)が見えたと耳にした。
本駅も西駅も戦災の荒廃や復興の様子、そして人間の生きざまの記録、近年の水害災難の記憶も留めた歴史の生き証人であったと思っている。
最近、高校時代「古文」で暗記させられた方丈記の一節を思い出すことがある。「行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず……」。本駅と西駅の歴史の流れは、方丈記の内容と酷似しているような気がしてならない。